横浜中華街と10基の門(牌楼)

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横浜中華街は傾いている?

傾いているといっても地盤沈下とか建物が傾いているというわけではありません。
横浜中華街全体の区画の向きの話です。


中華街の区画は大雑把に言えば周辺の区画と45度くらいずれています。
周辺の大通りは(横浜市中区の全体としても)海岸線に対して平行または直角。関内周辺や県庁、山下公園あたりもそうですね。
このようにグーグルマップでもわかります。


中華街の中の通りはだいたい格子状になっていて十字路が多いのですが、中華街自体の区画の向きが周辺とは違うので大通りと接する場所は十字路にならないところが多い。五差路もかなりあります。

今の中華街の場所は横浜港開港当時には「横浜新田」という呼び方で区画整備されていた場所です。
新田の周囲には水路もありました。現在の南門通りや開港通りは水路を埋め立てた上に整備されてます。
(このあたりの詳しい資料は開港資料館で見ることができます。)

横浜開港後、「横浜新田」の区画の中に徐々に外国人が住み始めました。
中国人が多く南京町と呼ばれていて、戦後に中華街と呼ばれるようになりました。

グーグルマップの航空写真で中華街を南側上空から眺めて見てみると周囲には高層ビルが多いのですが中華街自体には低層の建物が集中しているのがわかります。近代的な高層ビルが少ないのが中華街らしいところです。

中華街の区画は周囲の大通りと45度くらいズレることで周囲の大通りよりも東西南北の方向に近くなってます。
ただし正確に東西南北に向いているわけではなく周囲との45度のずれもあり、中華街を歩くと方向感覚があやふやになる気がします。

昔の中国の都をまねて整備された?

話は古代・中世の都に飛びます。

歴史の教科書で一度は目にするのが中国長安の都や日本の平城京・平安京の模型図や古地図です。
どの都も風水にちなんだ門や大路が設けられています。

例えば朱雀門。
中国の都では皇帝が居住する宮城の真南の城壁なり境界なりの中央に朱雀門があります。
その朱雀門から宮城に向けて都の中心を大路が真北方向に走っています。宮城の北側には玄武門があります。

こちらは横浜中華街の朱雀門(南門)と玄武門(北門)です。

日本でも中国の唐の都を参考に造られた平城京や平安京では東西南北の方角に道路が碁盤の目のように走っています。

当時の大路や脇道がまっすぐに整備されていたかどうかは定かではないのですが、いずれにしても平城京も平安京も方角的には宮城の真南に朱雀門なり羅城門がありました。

都の中央で南北方向に延びるまっすぐな目抜き通りが朱雀大路です。

方形の都の東西南北のそれぞれの辺は都の城壁だったり境界線になっていて、それぞれの辺(角ではなくて)に東門、南門、西門、北門があり門にはそれぞれの名前が付けられていたことがわかります。

横浜中華街の区画の向きと牌楼

話を横浜中華街に戻します。

横浜中華街はもともとあった「横浜新田」の区画に沿って発展した居住・商業地域で、唐時代の都をまねて新たに区画を造成したわけではないことはすでに書いたとおりです。

戦後、南京町から中華街へと呼び方が変わったのは最初に建てられた牌楼の善隣門に「中華街」と書かれてからです。

その後、中華街の「東南西北」の位置に牌楼が建てられました。

4基の牌楼の名称と位置

東西南北の方角に近いけどちょっとズレている微妙な中華街の区画の向きですが、地図に記載された4つのメインの牌楼の呼び方に注目です。
「東南西北」(麻雀と同じくトンナンシャーぺーです。東西南北ではありません)を「象徴」する場所にそれぞれの方角を護る牌楼(東門、南門、西門、北門)が建てられています。


最も人通りが多い「朝陽門」は「東門」としてガイドブックでも地図でもよく目にします。
「東」と書かれていれば初めて見た人はその位置が中華街の東に位置していると考えますよね。

同じように「南門」の「朱雀門」ならその場所が南に位置していると考えるのも普通です。

歴史好きの人なら古代中世の都の主要な門の位置関係がなんとなく記憶にあるでしょうからなおさらです。

そう考えて横浜中華街の「朱雀門」の通りを北方向へまっすぐ歩けば「北門」の「玄武門」が建っているのかと思いきや「東門」に突き当たってしまうのです。

この「東門」の実際の位置は中華街の中心からて東北方向の角です。「南門」は東南方向の角です。

横浜中華街はもともと「古代の都」ではないのに訪れた人が「古代の都」の区画を頭の中に描いてしまうと方向感覚が余計に合わなくなります。

この位置関係が中華街で方角を迷う人が多い一因なのかなとも思ってます。 中華街の通りの位置関係を理解してしまうのが迷わない早道です。こちらもどうぞ。











横浜中華街は日本で最大のチャイナタウンですし横浜を代表する観光地です。
憶測の域ですが、牌楼を今の位置に建てた理由は商業的な視点で考えるとわかります。


中華街のシンボルとして牌楼を配置するなら交通量の多くて目立つ場所が効果的です。
地理的に東南西北の位置とは正確には違うけれども商業的にはこの位置になります。
(守護神4基の牌楼について詳しく書かれているのが共同組合団体の横浜中華街発展会のサイトです横浜中華街発展会

10基の牌楼を見てみましょう

横浜中華街発展会のサイトにはそれぞれの牌楼のイラストが書かれていますので、ここではそれぞれ写真でご紹介します。

まず東南西北の「位置」にある東門、南門、西門、北門の4基です。どの門も中華街の外から見ると大きく「中華街」と書いてあります。裏側にその門の名前が書いてあります。イメージ的にはどの門も似ているように思えますがすべて形が違うんですね。

上から東・南・西・北の順番です。
外側から見ると一律に「中華街」と掲げられていますがその内側にはそれぞれの門の名称が書かれています。

朝陽門(東門)

朱雀門(南門)

延平門(西門)

玄武門(北門)

次は中華街の中にある5基です。
中華街大通りの西側に建つ「善隣門」です。中華街で最初に建てられた牌楼です。

関帝廟通りの両端にあるのが「天長門(テンチョウモン)」と「地久門(チキュウモン)」です。
天長門が関帝廟通りの東端で南門通りに面していています。
地久門が関帝廟通りの西端になります。

どちらの門も内側には「関帝廟通」と書いてあります。

中華街大通りと関帝廟通りは平行していてます。
その二つの通りを横方向につないでいる通りは何本もあるのですが、市場通りだけは牌楼があります。
「市場通り門(イチバドオリモン)」という牌楼で中華街大通りと関帝廟通りに交差する場所にそれぞれ建っています。

最後は唯一中華街の区画から外れた場所にある門「西陽門」です。JR石川町北口にあるので中華街を探しても見つかりません。

中華街のあちこちに牌楼が建っていましたが、それぞれ名称があるし、型も違っているんですね。

小さいころから中華街に連れて行ってもらったり、社会人になってからも中華街で何度も忘年会やパーティをしたこともあったのですが、最近まで牌楼の位置も名称も理解していなかったんです。

実際、以前はお店を探すのに時間がかかったり、帰り道を間違えてしまうことはしょっちゅうでした。
夜間はなおさらです。でも牌楼の名前と位置を覚えてしまうと、通りの位置関係もわかるので迷うことはなくなります。

以上、横浜中華街と10基の牌楼でした。

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